姫路城とは

歴史を垣間見る

国宝として、そして世界遺産として認定されている姫路城だが、その凄いところといえば風貌明媚な城郭であることはもちろんのこと、それ以上に凄いことといえばその原形が修理を二度挟んでいることを含めても、大半が現代まで保存されているという事実については驚愕といっても良いところ。それもそう、二度の世界大戦のほか、いくつもの内戦がこの日本でも繰り返されていた中で奇跡的にも大天守を含めた城を構成する施設の大部分が残されているのは、まさしく奇跡の一言に尽きる。だからこそ壁などの補修はもちろん、姫路城が今後起こりうる天災などによって深刻なダメージを蒙らないようにするためにも、耐震などの補強を施すことによって倒壊の恐れなどから何とか回避しようとする市、というよりも世界的な意志が働いていると言っても過言では無いだろう。そもそもこれだけの建物が倒壊したら、周辺地域にどれだけの損害を与えるのかと考えるだけでも恐ろしいところ。只でさえ姫路市がある兵庫県では景観という言葉に対してシビアになっている地域もある事を考えれば、歴史溢れる町並みが破壊されないためにも、現代人として古代の人々が作り出した原始的と呼称される人が持てる技術の神秘によって完成した城郭を守るのは当然の義務、そう断言していいはずだ。

そんな姫路城だが、こうして客観的に見てみるとやはり歴史的な背景が気になるところ。ここの項目ではそんな姫路城の、基本的な情報などを考察して行こうと思う。そこに個人的な感想もそれとなく横槍を入れていこう。

基本情報

ではまず姫路城の簡単なプロフとした情報から考察してみる。まず姫路城の天守、つまりは城主が滞在していることが多い場所は城が建築されている姫山にある。この山は少し小高いモノで、標高として約45mほどとなっている。その頂上に位置している場所で堂々とその風貌を見せており、その高さは圧巻の一言。建物そのものの高さは全長46mとなっており、内訳として石垣が『14.85m』、建物が『31.5m』となっている。建物の高さとして考えれば物凄い大雑把に言えば4階の建物で約10mと想定すると、およそ約5倍程度の高さとなるため20階前後のビルを想像してもらえれば早い。当時この城で主となっていた城主、働いていた人々はそんな高層でせわしく働いていたという。ただこれはあくまで建物だけの高さとなっており、これに姫山の高度を合わせるとおよそ海抜90m以上の高さにまで全長が伸びる。城という基本的に必要な構成材料として、敵から攻められにくい場所に建築しているという点で考えれば条件として適しているといえるだろう。

また念頭に入れておかなければならないのは、これは天守の天辺までの高さというだけで、城を構成している材料の一遍でしかない。城が建造された時代は戦乱の世、国取り合戦が繰り広げられていた中で悠然と天守だけの城といったような、どうぞご自由に攻め落としてくださいといわんばかりの物は存在していない。姫路城も天守までの道のりをある程度確保するために山そのものを陣地とした、広大な面積が確保されている。その全体的な大きさとしては『233ha』、具体的な数で表すと東京ドームの約50倍となる面積だという。こうした例を挙げられても正直実感というか、それこそ広さを創造するのが難しいので、とりあえず広大すぎる面積だということだけ覚えていれば十分だ。そしてこれだけ広いとこの中で生活している人もかなりの人数が生活していたことだろう、これだけの大きさであれば城下町なども存在したことであり、何十万人という人々が当時姫路城のお膝元で生活していたということだが、それも現代人からすればあまり現実味の感じられない話かもしれない。今の時代、お城の下で暮らしているという似た感覚を持っている人は少ないだろう。ただ継承されている感情としては、人は高いところに住みたがるというのはどこか共通しているところではないだろうか。

いくつもある天守

天守といっても、この姫路城でもあくまで大天守とは城を統治している人間が拠点としている場所だが、これだけ広い中で天守が1つだけということはまずない。国宝として指定されている姫路城だが、この言葉で表現されている『城』というのは、実のところ複数の天守を意味していることを指しているのだというのを忘れてはならない。では姫路城にはいくつ天守が存在しているのかというと、国宝として指定されているのは4つある。天守にもそれぞれ呼び方があり、

  • ・大天守
  • ・西小天守
  • ・乾小天守
  • ・東小天守

といった本丸を筆頭にした少し小さめの天守がこの姫路城には存在している。基本的にはそれぞれの天守にそれぞれの主が居を構えているが、あくまで城を統括しているのは大天守に存在している人間であって、その他の天守に住んでいたのはその城主の家族ないし、臣下たちが日々の業務をこなしながら生きていた。こう考えてみると当時の人々の生活がそれとなく気になるところだが、今回はあくまで城に関しての情報だけにとどめて話をしていこう。

南北朝時代から存在している

そんな姫路城だがいつの頃から建築されていたのかというと、西暦にすると『1346年』に建造されていた事が確認されている。当時の主は『赤松貞範』と呼ばれていた守護大名が姫路城を建築した。その後赤松が別の城を本拠地として遷る際、残された城の主として任命されたのは『小寺頼季』が城代となり、その後は小寺一族が代々この城の管理を任されることとなる。正面きって言ってしまうと、歴史学を学んでいないと知らないような人物であるのは間違いないだろう。確かに城そのものは知名度もあって深い歴史を知らなくても知っている人はいることを考えると、建築されたばかりのころに任命されていた人間は誰かを考えたら、分からないという人がいてもおかしくは無いだろう。

そんな姫路城を管理していた小寺氏は安土桃山時代における戦乱において、織田信長率いる勢力によって没落まで追い込まれ、城を手放すこととなる。その後この姫路城はかつて小寺氏に仕えていた黒田孝高が、豊臣秀吉にそのまま仕えることになった後に、秀吉にこの城を拠点とする進言をしたことで実現し、その後は秀吉が天下人になりあがるまでに利用されていた城として大いに活用されていた。秀吉が一時の天下平定を成し遂げた後は、弟の『豊臣秀長』が入るが長くは続かなかった。その後この城に入閣し、また現在の姫路城の原形を作り上げることとなった武士『池田輝政』が入場することになる。

天空の白鷺こと、国宝 姫路城とは

日本では国宝、世界では世界遺産として認定されている伝統文化遺跡である『姫路城』、その大天守部分を改修する工事『天空の白鷺』が2014年1月にその作業を終了した。来年の工事完了が待たれている姫路城は、今でも多くの観光客に愛されている観光地としても親しまれている。そんな姫路城について考察していこう。