江戸から明治までの歴史

池田輝政という武士

国宝として、そして世界遺産として認定されている姫路城を作り上げたのは豊臣秀吉ではなく、彼の元臣下であり、かなりの曲者という印象が否めない『池田輝政』という人物の活躍あってこそとなっている。どういうことか、それは安土から江戸までの歴史における歴史上の人物として語らなくてならないからだ。何が曲者なのかというと、この池田輝政は生涯において主とする人間を幾度となく変えているからだ。ぞの人物は、まず始めに織田信長の家臣として仕えていたが、信長が明智光秀によって謀殺され、その後は豊臣秀吉に一族揃って忠誠を誓うこととなる。その後父と兄の死後をきっかけに家督相続をすることになるが、秀吉が朝鮮半島出兵をしている最中に倒れて還らぬ人になると、次に忠誠を誓う相手として徳川家康に接近するのだった。なんとまぁいうところか、歴史学を勉強する上で、基本中の基本とも言える3人と出会ったことがあるのはもちろん、全員と一度は主と臣下という関係を築いていたのだから、驚きだ。歴史を調べているとこうした点が浮かび上がってくるので面白い、また鞍替えが激しかったと批判する事は簡単だが、ある意味では非常に立ち回りが上手かったともとれる。それこそ自分達の家名を守るという意味では。生き残る方法を弁えていたといえるだろう。

そんな池田輝政が姫路城に入閣したのは関が原の戦いにて入城し、家康から西国からの進行と牽制をするための拠点とするための命を受け、既に広大だった地域を更に広くその領域を拡大して行く中で、現在の姫路城へと繋がっていくための大規模な開発が行われていくこととなる。

歴史的遺産を作り上げた事は功績として讃えることは出来るだろうが、どうにもプライドというか、神君に対しての忠誠心が薄いような人物のようにも取れるのは筆者の気のせいだろうか。ただ人こといえるのは、あまり偉大な人物ではなかったという事は間違いないだろう。

江戸時代における推移として

姫路城のその後としては、徳川家康が天下統一を成し遂げることに成功し、江戸時代がその幕を挙げた後の1618年に、全容の大半が完成していた。この頃には池田氏は城主から退き、変わりに孫に当たる『池田光政』が城主として命じられるも、まだ幼少だったために直ぐにその任を解かれた後に、本多忠政が入城することになる。ただこの頃、藩主が入れ替わり立ち代り繰り返すこととなってしまい、姫路城がある、姫路藩は慌しくも波乱に満ちた時間を過ごすこととなる。藩主は落ち着きを取り戻すことは出来たが、藩の経済状態は決していいとは言えない状態にまで追い込まれていたため、苦難の時代が到来したといっていいだろう。

その頃に一度、姫路城は修理が行われており、これが歴史に残る姫路城修理の一幕、『江戸時代の修理』だ。あらかた補強が行われ更に守りを強化することに成功した姫路城だが、時代が進行すると共に日本国内を取り巻く情勢と、さらに日本の鎖国体制に業を煮やしていた海外からの圧力なども相まって、一時期緊迫した状況が継続していた。そんな中で巻き起こったのが、後に大政奉還へと繋がる新政府軍を主体とした二分化する事態だ。実を言うと、その頃に一度姫路城が全壊も免れないほどの危機的状況に追い詰められていたという。

国宝への道を切り開いた無血開城

その頃の姫路城を統治していた主である『酒井忠惇』は老中として幕府、江戸時代最後の将軍である徳川慶喜と共にあったことも影響し、姫路藩そのものが旧幕府側に組しているという疑いをもたれてしまい、姫路城は岡山藩と龍野藩を中心とした新政府軍1,500人に包囲される事態に直面していた。一時、威嚇砲撃として放たれた中に実弾が混じっていたため、城南西の福中門に命中するなど両者の間で緊張が高まってしまう。このままだと戦争回避は不可能と思われていた中で、摂津国兵庫津の勤王豪商・北風荘右衛門貞忠による15万石の私財を新政府軍に献上することで、この戦いを食い止めることに成功する。

これをきっかけにして藩主の留守を預かっていた家老達の意志によって姫路城は開城され、城の明け渡しを新政府に恭順した。この事態において横槍の如く戦争回避する手立てが打たれていなければ姫路城は戦禍の渦に巻き込まれ、下手をすれば国宝として残されていなかったことも考えられる。なんとも恐ろしく、そして機転の聞いた顛末だと胸を撫で下ろす気分だ。

明治における姫路城の立ち位置

江戸時代が終わり、300年にも及ぶ徳川幕府の栄光は失墜すると新しい新政府として明治が到来した。その後廃藩置県が行なわれると城そのものはこの先の日本には不要として、大半の城が解体やらの節目に遭遇する。それは姫路城も例外ではなかったが、解体して部品だけにバラしても費用と人員だけが莫大となってしまうため、そのまま宙にぶら下がりながらも有耶無耶になっていった。

その後城跡は陣地としてみれば非常に有利な場所に存在しているため各地域に兵士が配置され、姫路城においても当然のように兵士配属が行われる。

またこの時大政奉還などの歴史的変革が一段落ついた後、1877年ごろから日本の城郭を保存して行こうとする動きも見られるようになる。当初は解体して瓦などの貴重な建材を手に入れようと解体する動きもあったが、それよりも保存して行くことで歴史的価値のある建造物を残すことの方が重要だという声が、少なからず上がっており、またそれが大きくなっていった。ただ当初は消極的だった側面も否めず、また姫路城の状態もよろしくなかったため急を要したが、中々予算が通らず四苦八苦することになる。その後何とか抽出することに成功するも、半分程度しか集まらず城は腐敗の一途を辿ることになる。

これではさすがにまずいと民間人を始め、多くの人々が積極的に動いたことでようやく国費から当時の金銭で9万3千円が支給され、修復作業が始まる。これが明治期における姫路城の『明治の大修理』となる。

天空の白鷺こと、国宝 姫路城とは

日本では国宝、世界では世界遺産として認定されている伝統文化遺跡である『姫路城』、その大天守部分を改修する工事『天空の白鷺』が2014年1月にその作業を終了した。来年の工事完了が待たれている姫路城は、今でも多くの観光客に愛されている観光地としても親しまれている。そんな姫路城について考察していこう。